昨日、上野に行ってきました。
電車は、本数こそ減っていましたが、
なに不自由なく到着することが出来ました。
人影は、普段よりも減っていましたが、
ショーケースに並んだ商品を、ジッと見つめる人がいました。
ここは、"蚊帳の外"です。
大通りの横断歩道を渡ろうとすると、
ボーイスカウトの子どもたちが、募金を募っていました。
ひとりの若者がスッと歩み寄り、募金箱に小銭を入れました。
小銭のぶつかるチャリンと言う音が、私の耳に聞こえました。
耳にイヤホンをかけた若者は、モノトーンのカバンを手に、
無表情のまま、足早に去っていきました。
スーツを着たサラリーマンが、革靴をコツコツと鳴らし、募金箱に小銭を入れました。
「ありがとうございます」という子どもたちの声が、私の耳に響きました。
オシャレなネクタイをしたサラリーマンは、片手をサッと挙げ、
にこやかに微笑みながら、そっと去っていきました。
腰の曲がった老人が、ゆっくりと歩み寄り、募金箱に小銭を入れました。
「少ないですけど、がんばってください」「はい、ありがとうございます」
穏やかな会話が、私の耳に届きました。
老人は、ボーイスカウトの青年と握手を交わすと、
ゆっくりとその場を去っていきました。
今日もテレビは崩れ去った町の光景を映します。
泥水に浸かった家が見えます。
目を覆いたくなるような風景が私の目に向かって飛び込んできます。
ここは"蚊帳の外"です。
ラジオのパーソナリティが、
「少しでも皆さんが明るく慣れる話題を」と言いました。
とある音楽家が、
少しでも皆が元気になれるように、と励ましの歌を作りました。
数人の絵描きが、
少しでも皆の心の支えになれるように、と一枚ずつ絵を描きました。
頑張っている人に「がんばれ」と言うのは、酷いことかもしれません。
苦しんでいる人に「大丈夫」と言うのは、惨いことかもしれません。
"蚊帳の外"からの声は、辛く、痛く、重く、
時には苛立ちや殺意さえ覚えるものかもしれません。
その声はただの懺悔かもしれません。
独りよがりな自己陶酔かもしれません。
ひとときのの満足感のためかもしれません。
それでも、今日も、世界中から何千もの言葉が届きます。
顔も名前も知らないあなたへ、世界中から声が届きます。
そこには、大きさに違いこそあれ、ひとつの想いが込められていると思います。
「どうか、生きてください」
ほんの小さな欠片かもしれませんが、ひとつひとつの言葉に、
まだ見ぬあなたを心配する気持ちが込められています。
「がんばれ」とは言えません。
「大丈夫」なんて言えません。
だけど、これだけはあなたに伝えたい。
「どうか、生きてください」
いつか出会えるかもしれないその日のために。
「どうか、生きてください」
被災者へ向けたpixivの投稿の数々に様々なコメントがついていました。
励みになる、先の震災の後に見て嬉しくなったという言葉から、
これ以上がんばれと言うのか、苛立ちを覚えるという言葉までありました。
この記事は、この4日間で私が目にし、耳にし、感じたことです。
毎日、ひとつひとつの質や量に違いこそあれ、
世界中からたくさんの声が寄せられています。
ですが、残念なことに、その中にはやはり、
誤解されて伝わってしまう言葉もありました。
人によって食べ物の好き嫌いがあるように、
モノの感じ方、捉え方なんて人それぞれですから仕方の無いことだと思います。
もちろん、勘違いな言葉や場違いな言葉もありましたが、
いちいち「ナニ言ってんの?」とか「せっかく書いたのに」なんて
言い合うのはもったいないな、って。
この記事自体が誤解されて捉えられてしまうかもしれません。
私の自己満足かもしれませんし、今更言うことでも無いこととも思います。
私自身、平凡未満の人間ですからね。
でも、やっぱり、ちょっと文字にしておきたいな、って。
なんて、ちょっと感傷にひたってしまったのです(´・ω・`)