ありがとう
どうか、また、あえますように―――
「まったく、無様だねェ。
マーキス=マキシリア!」
メフィストが、必死に起き上がろうとする彼の腹を、
その黒く固いヒヅメで、勢いよく蹴り上げました。
蹴り飛ばされた彼の体が地面を転がっていきます。
「もう少し楽しめると思ったが、
最初の威勢はどこに行ったことやら。」
自らが蹴り飛ばした彼に、ゆっくりと近付いて行きます。
まるで子供がボールで遊ぶように、また彼を蹴り飛ばしました。
「我々は純粋な欲が極まったときに、人から昇華した存在。
下らない罪悪感とやらに捉われ、つまらない自己犠牲で満足させるために、
キミ達を生かしたわけじゃないんだがねぇ。」
「黙・・・れ・・・ガァ!」
「己の欲に正直になることが、我々の自然な姿だと言うのに。
"良心の呵責"など、一瞬の気の迷いに過ぎないのだよ?」
「・・・。」
やがて、動かなくなった彼を見ると、
メフィストは蹴ることを止め、足元の彼を見下ろしました。
「ふむ、ボール遊びももう飽きた。
さっさと終わらせようか。」
メフィストが再び右手に大鎌を取ります。
静かに右手を振り上げると、口元を歪め、笑いました。
「さぁ、今一度バラバラになって、
何もかも忘れるが良い!」
「やめてっ!」
ドンッ―――!
私は、鎌を振り下ろそうとするメフィストに、
渾身の魔力を叩きこみました。
背中に当たった私の魔力が弾け、
メフィストの上半身を靄が包みこみます。
「クックック、そうか、キミはまだ動けたんだネェ。」
靄が晴れると、中から、笑い声とともにメフィストが現れました。
身体を奇妙にねじり、こちらを睨み付けています。
「やはり、キミから消しておこうか!?」
怒号と殺気。
次の瞬間、目の前にメフィストが大鎌を構えながら現れました。
大鎌がゆっくりと私に向かって振り下ろされます。
「っ!」
ズッ・・・。
肉を引き摺るような不快な音。
「なん・・・だ、これ・・・は?」
次に聞こえたのは、驚きに満ちた声。
身体から生えた黒い腕。
指先には宝玉をつかみ、背中から胸を貫いています。
聞こえたのは、メフィストの声でした。
「マーキスぅうううううううううっ!
貴様が何をしたのか解っているのかぁアアアアアアアアアアアアアっ!?」
「わかっているさ。
しかし、この子を傷付けるものを許すわけには行かないんでな。」
血だらけの身体を起こし、メフィストを貫いている右腕に力を込めます。
「くそっ!くそっ!!
この骸が!人形風情が!
この私に生かされているというのに!
何故私に、このメフィストに楯突くゥッ!?」
―――理由など簡単だ。
彼が呟くと、つかんだ宝玉が徐々に輝きを増し始めます。
「貴様は俺の妹の髪を切った―――。」
次の瞬間、宝玉が、パッっとひときわ明るい光を放ちました。
「聞け!宝玉よ!
我が妹に、失くした記憶と、もう一度、人としての生を!!」
「愚かな!愚かなぁあああああああアアアアアアアアッ!
永遠の生を手に入れたと言うのに!
この私を!この私をッ!
許さん、許さんぞぉおおおおおおおオオオオオオオッ!」
宝玉がますます光を増す中、
身体から宝玉を失ったメフィストの体が、
黒い炭になってボロボロと崩れて行きます。
目に飛び込んでくる光を通して、
人として産まれたときからの記憶が、鮮明に飛び込んできます。
懐かしい風景。
優しかった父の姿。
私を産んで死んだ母の話。
そして、私をいつでも守ってくれていた、兄との思い出。
「にい・・・さん・・・。」
やがて光が収まると、宝玉は音も無く砕け散りました。
メフィストの身体は既に消えうせ、欠片すら残っていませんでした。
「終わった・・・のか・・・。」
突き上げていた右腕をゆっくりとおろすと、兄が私の方を見つめます。
「久しぶりだな、ネイリ。」
「兄さん・・・。」
兄が、優しく、静かに私の名前を呼びました。
佇む私に、ゆっくりと近付いてきます。
「今まで黙っていてすまなかった。
ヤツが特殊な呪いをかけていたみたいでな。
記憶を無理に戻そうとすると、お前が苦しんでしまったんだ。」
「ううん、良いの・・・。」
「結果、お前を五百年もの間、苦しめることになってしまった。」
「兄さんは、いつも私を守ってくれたよ・・・。」
兄が、私の頬にそっと手を伸ばします。
「―――!」
伸ばそうとした手が、音も立てずに白い灰になって崩れ落ちました。
「もう時間か、思ったよりも早いな。」
「にい・・・さん?」
兄の姿をよく見ると、身体の所々が灰になって崩れていっています。
「もともと、死んだ身体を、ヤツの魔力によって無理やり保っていたからな。
お前が人間になって、魔力を失えば、当然こうなるとは思っていた。」
「え・・・?どうして・・・?」
突如として現れたわけの解らない不安に、私の心は混乱していました。
「やだよ・・・。
こんなのやだよ・・・。
せっかく、またせっかくあえたのに!」
「ネイリ・・・本当にすまない。
こんな身体じゃ、お前を抱きしめてやることも出来ない。」
「勝手すぎるよ!
また一人にするなんて、勝手だよ!
また兄さんが居なくなったら、私はどうすればいいの・・・!?」
徐々に消えていく彼の身体を、精一杯の力で抱きしめました。
彼の腕は、もう消え去っていました。
「なぁ、泣かないでくれ。
そばにいてくれるのは、もう俺だけじゃ無いだろう?
あの少年は、お前をきっと守ってくれるよ。」
「・・・。」
「髪、短くなっちゃったな。」
「・・・うん。」
「あとで、ちゃんと切りそろえておけよ。」
「・・・うん。」
「料理はちゃんと覚えろよ。」
「・・・うん。」
「じゃないと、アイツにも愛想をつかされるぞ。」
「・・・バカ。」
沈黙が流れます。
オレンジ色の光が満ちる荒野には、もう二人しか居ませんでした。
兄が、優しい笑顔のまま、私を見つめています。
うまく笑えない私は、それでも精一杯の笑顔を返しました。
「それじゃ、またな、ネイリ―――。」
「ありがとう、兄さん―――。」
兄を力いっぱい抱きしめていた腕が、すっと軽くなりました。
支えを失った私の身体が、膝から地面に倒れこみます。
「うっ―――。」
不意に、まるで洪水のように―――
「うっ、うああっ・・・!
うわぁあああああああああああああああああああ!」
私には、その目から流れる涙を、止めることは出来ませんでした。
オレンジ色の荒野には、ただ、一本の剣が残されているだけでした―――。
暗い森の中
パチパチと燃える焚き木
雑なつくりの木の机
その上には一冊の灰色の背表紙の本
文章は途中で終わっている。
どうやら書きかけのようだ。
後には白紙のページが続き、インク瓶とペンがそっと置かれてある。
・・・どうやら、本の持ち主が帰ってきたようだ。
これはとある兄妹の物語
そこにあるのはただ無上の愛―――